本波慶太郎(ほんなみ けいたろう)

鵜坂村分田 慶応元年(186584日~昭和4年(19293月 享年64

 テキスト ボックス:  生まれは下新川郡浦山村浦山である。

若くして農学に志し、明治18年石川県農事講習所を卒業し、下新川郡や婦負郡で奉職した。明治20年農務局蚤業試験場に入り、明治36年婦負郡書記となり、当時婦負郡鵜坂村分田にあった県立農事試験場の場長に就任、農業の巡回教師、産業技師として、農事改良普及業務に専念した。

住居も農事試験場内に移し、献身的に婦負郡一帯の農業の改良、産業の開発に貢献した。大正9年退職、鵜坂村を第2の故郷として後進の指導に当った。大正11年、地元住民衆望を担って鵜坂村長に就任、その職にあること6ケ年、鵜坂村産業組合長も兼ね、行政面から農業振興の指導に当った。また県社鵜坂神社の新築に建設実行委員長として成功に導いた。また大正12年以来、神通川改修工業の促進にかかわり、左岸工事と共に合口用水問題に東奔西走して、その成果を挙げた。又公設消防を始めて組織し、村会の協賛を得て、社会の安寧秩序を保持し、福利増進を図るなど、近世の先覚でその功績は枚挙に逞なき程である。

殊に帝国農会法が制定されると共に、明治334月、婦負郡農会を創立し、その幹事の重職に就き、爾来大正9年まで満19ケ年その責務を全うした。その功により大日本農会から緑白綬有功章を贈られた。大正3年以来約20年間、清和報徳社の副社長として社務を指導し大正12年以来6ケ年、鵜坂村産業組合長として、鋭意組合の発展向上に尽瘁してきた。

 また婦負郡南部農業倉庫の創立に努力してきた。

私生活では、敬虚な仏教徒であり、眞宗本派を信仰し、趣味は園芸と報徳主義の研究玩味という。