野村嘉六(のむら かろく)

鵜坂村下轡田 明治6年(1874810日~昭和27年(1952117日 享年80

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志を立てて上京、与えられ恵まれた才能を存分にのばすために、東京法学院(いまの中央大学)で法律を学び、刻苦精励の功なって弁護士試験に合格、富山区裁判所の判事となった。郷里を出たのは16才、14年後に法曹会に花を咲かせ錦を飾ったのである。

しかしその間兵籍一年余りのほかは、貧乏書生として屈辱にたえ、血のにじむような勉学を続け、当時の苦学生の追随を許さぬ労苦を重ね

た、不遇に屈せず、才を駿らず、そして焦らぬ忍耐の二字を教訓にかち得た栄誉でもあった。

明治39年、官を辞して、富山市相生町で弁護士を開業、44年、県会議員に当選、県政に力を尽したが、推されて翌年5月衆議院議員に当選、改進党系の民政党に所属、以来昭和17年、議場をおりるまで、大正、昭和の30年間、9回連続して国政に参画したのである。長い東京の政治生活の本拠は、東京新坂町の家の二階を間借り、のちに移った麻布霞町の家もみすぼらしいサラリーマン風の住宅で、うちの中は、いつもがらんどうであったといわれている。

 国政をあずかる代議士といえば、大礼服に位階勲等をほこり、議席が長ければ、交際もあがって大邸宅を構えるのがふつうであったが、嘉六は性来快淡、選挙民からは好々爺として慕われて、全力国家のために捧げるという人であった。これも青年嘉六の苦学の体験からにじみ出た無私無欲の処世のしからしむるところであった。

 大正13年、加藤三派内閣のとき、商工省参与官となった。ときの商工省が鬼門としてきた証券問題を、嘉六の信念で廃案とし、事なきを得、野田商工大臣に、その政治手腕と硬骨を高く評価される結果となった。

 また加藤高明の急逝のあと若槻第一次内閣のとき、藤沢商工大臣は会計士法案はじめ十件近い法律案を議会に提出した。議事が進んだ最も大事な機に及んで大臣が長患いとなり、一切の法案答弁は政務次官の嘉六がかわることとなった。誠実と忍耐をもって、そのすべてを引き受け、ひとつも残さず議会を通過させることに成功し、その才腕は閣僚以上と評された。

或は恩給法の改正案が第37議会に出されたとき、多数の廃兵に万斛の情を寄せた嘉六の意見は、超党派で賛成を得ることができた。

 この他に臨時治水調査会委員、鉄道会議委員、文部政務次官、文教審議会委員として活躍した。

また衆議院に議席をもちながら、昭和912月、富山市長に推された。年俸を全額市に寄付して無給市長となり、献身的に市政の改革にあたった。