岡崎佐次郎(おかざき さじろう)

鵜坂村西本郷 明治21年(1888)~昭和25年(1950

テキスト ボックス:  テキスト ボックス:   佐次郎は、代々御扶持人十村を勤めた「島の徳兵衛」こと「岡崎徳兵衛家」の十四代徳兵衛(順誓或は徳水ともいった)の三男として生まれた。明治22年兄藤十郎(十五代・善淋)の養子となり、十六代当主となった。

若い頃、京都に遊学し、草場船山の塾に入り学を修めた。また、薮の内竹翠(家元)宗匠について茶道を学び、一流の茶人の域まで達した。

明治36年(1903年)郡会議員に選ばれ、郡会議員も勤め、郡政に参与し地方行政に多大の貢献をした。明治41年、衆堂を荷って衆議院議員に選出され、能くその職費を尽くした。

改進党に所属つねに時代意識に立脚し、特に農政について強い関心を示し、教育、民風の作興に挺身することを忘れなかった。郡教育会の会長として、学事上にも貢献した。

その他幾多の公職に在って村治の改善、民風の作興、産業の開発に特に意を注いだ。地方稀に見る政治家であり、産業開発者でもあった。

 議員退職後も、中央政界とつながりを持ち、特に昭和4年政友会総裁、同6年には首相に就任した犬養毅(木堂)等と特に親交厚く幾度も文通しあった。首相若槻礼次郎とも交誼を尽くし、若槻氏自身が昭和127月岡崎家を訪れたこともある。

 このように政治街道を歩みつづけてきた反面、藍田と号して、漢詞に対する造詣が深く、中国についての研究にもかなり深いものをもっていた。大正15年、中国に旅行すること二ケ月、彼の地の墨客と交歓し、帰国後著わした旅行記に「燕鳥越鴻」がある。藍田の号は、あるいは中国の詩人王維(唐の李白、杜甫と並称された詩人で、別称を藍田荘と号した南画の始祖であり、奈良朝の阿部仲麻呂に贈った詞もある)の藍田荘から採ったのではないかとも思われる。王維の誌書画一体の境地はまた、藍田の詩境に通じた画境でなかったかともいわれている。

 晩年は、悠々誌書画三昧に身を託して、風月を友とした世外の人でもあった。

咏物  風搖入二疎竹一 貌取予師汝 「風搖疎竹に入る 貌として取る」

藍田(越中古今詩鈔) 冷韻伴二孤吟一 清虚一片心 「冷韻孤吟を伴う 予れ汝を師とすることを、清虚一片の心」

 

 

 

若槻礼次郎(元首相・民政党総裁)岡崎邸訪問(昭和127月)

佐次郎主催の「漢詩の会」に出席するためという名目だったが当時の県内各界の名士が参集した。

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若槻礼次郎18681949

 大正・昭和の政治家 大正15年第1次若槻内閣を組織、昭和5年ロンドン軍縮会議に全権として出席、昭和6年、第2次内閣を組織。

しかし、満州事変の発生などで内閣は崩壊。