岡崎文夫(おかざき ふみお)
鵜坂村西本郷 明治21年(1888)~昭和25年(1950)
島の徳兵衛こと岡崎家の十六代目の当主である。
明治38年、県立富山中学枚を卒業し第四高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入り、東洋史を専攻し、明治45年卒業した。同大学院に進み、中国近世史を学び専ら中国古代史を研究した。
大正8年大学院生の中から抜擢され、上野育英会(奨学資金)の資金補助を得て中国に留学し、居ること3年、同10年帰朝するや東北大学助教授となる。
大正14年フランス・イギリスに留学し、昭和4年東北大学教授となり、同10年文学博士、同24年退職した。
この間 京都大学講師、文理文学講師、龍谷大学教授などを兼任し、昭和18年、日本学術振興会学術部第二常置委員となった。
主な著書
魏晋南北朝通史 南北朝に放ける社会経済制度
古代史那史要 江南文化開発史 支那史概説
司馬 遷 支那史学思想の発展 古代南北朝支那社会史
昭和25年3月逝去 正四位勲二等瑞宝章が贈られた。
「岡崎文夫博士を憶う」(抜粋) 波多野太郎文博(横浜大)
先生は温顔でお痩せになって居られ、何時も和服に袴姿といういでたちで痩躯鶴の如き感があった。時々背筋を正し厳しい表情をされることもあり、人の研究の程度を批判されることもあり、私が聞いていてもよいかと思われるお話までふとなさったこともある。
人の意見は年令とか地位とか区別されずに、よいものをお取りあげになった。
「古代支那史要」を御執筆中、私はお手伝い申上げ、先生の御説と違う燕京学報に載った論文を持って申し上げると喜んでお取り上げになった。
(中略)戦場でアメリカ軍の爆撃を受けていた時「この小包」が届き、部下の軍曹が持ってきてくれた。戦況そっちのけで序文に目を通すと、先生は私のようなものに心から想いを込めて文章をお書き下さった。私は思わず涙が頬を伝った。
「軍曹!俺は恐ろしくて泣いて居るのじゃないぞ。これを読め」と思わず、先生の大著の序文を突き出したのだった。思えば演習命令を受けて研究室を辞めるとき、令状を持って先生のお宅にかけつけ、「遂にこんなものがきてしまいました。お手伝いを中断して申訳ありません」と申しあげると、先生は静かにそんな風にいうものではないと宥められた。
何人も及ばぬ史眼を備えられ、浩として、烟海の如き文献を透徹した眼光によって董理され、歴史の流れを捉えられることにずばぬけた才能をお持ちであった。
しかし先生は常に謙虚な姿を持ち続けられた。 (後略)