鵜坂村

 

位置

婦中町の東部を占める。神通川の中流左岸に位置し、対岸は富山市新保地区である。国道359号線を経て神通川の有沢橋並びに婦中大橋を経て、富山市に隣接する。北は富山市神明地区及び婦中町朝日地区に、西は同朝日安田地区と同速星地区に、南は同熊野地区と境する。

 

地勢と土質

東に神通川(流れは往古より変遷を繰り替えしているが)、西に井田川 南に御門(みかど)川と三方が川に囲まれていたので古来三川島(みかわしま)と呼ばれていたところである。神通川扇状地の中央部でもあるから、平坦な洪積層砂質壌土に被われた肥沃なところである。

しかし神通川流域の度重なる変遷で、この辺り一帯は砂礫の川原であった時期がかなり多かったと思われる。今でも田面2〜30センチぐらい取り除くと砂礫ばかりで田を鋤くにも困難なところがかなり多かった。昭和初期(6年)の資料によると村の総面積は503haのうち田448ha畑448haとなっているが最近は農地の宅地化が急速に進み田畑が激減しているのが現状でもある。

 

 

沿革の概要

 

地名のおこり

当地の現神通川が鵜坂川といったことから、鵜の生息地であったか、或いは鵜飼いが行われていたからか、何れかに起因すると考えられている。近代(明治時代)でも神通川には野放しの「鵜」が沢山いたことで、これに追われた鮎が川原に跳ね上がったものだという古老の話しもある。

奈良朝、天平時の国守大伴家持が管内巡察の途次、詠んだ「めひ川(神通川)」での「鵜飼い」の歌からも、「鵜飼い」が行われていたことが明らかである。

 

鵜坂神社

婦負郡発祥の地として、この辺りでは最も早く開拓の祖をまつる宮として、確かな年代は不明ながら存在していたらしい。それが第10代崇紳天皇の代 北陸将軍大彦命(おおひこのみこと)の勧請にかかり白雉年間(650〜654)堂宇を再建したという。その折、神代第6代面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)を主神として、上記鵜坂姉比刀iねひめ)の神、妻比刀iめひめ)の神および大彦命を相殿に祭るようになった。

それいらい、朝野の崇敬厚く、平安朝には、白河天皇、堀川天皇の病が重く、鵜坂神社にお祓いをさせたという史実や勅使が遣わされたという記録がある。また、称徳天皇(765〜769)の御代に僧行基が勅を奉じて24院7堂伽藍を建てた。これが鵜坂山鵜坂寺(とうはんじ)である。しかしその後、数次の兵火、水害にあって衰微し、明治3年には廃仏棄釈の憂き目にあい、75世の勧実大和尚をもって廃絶したのである。

 

大伴家持

越中の国司大伴家持が天平20年(748)、国府を出て射水川を経て、音川線、或は水戸田線を巡り、婦負の野(めひのの)入り、鵜坂神社に詣でて、郡衛(ぐんが)の一夜の慰めに、鵜飼いを賞でた。

明けて神通川を渡り、早月辺りまで、巡察したといわれている。

 その折詠んだのが

  鵜坂川渡る瀬 おほみ このあが馬のあがきの水に きぬぬれにけり

 

  売比河(めひかわ)のはやき瀬ごとに(かがり)さし 八十伴男(やそとものお)は鵜川立ちけり

 

と、この地はわが国鵜飼の最古のものの一つで、神通川に火炎光々景観を呈していたことであろうと思われる。爾後年をおって漁具漁法が改良されて、鵜飼そのものは次第に消滅していったようである。

 しかし漁業は依然盛んに行われ、ます・さけ・あゆが地方の特産品として早くから都人士にも称揚されたようである。平安時代の諸国の産業状態を現している延喜式主計の部に越中の産物として鮭鮨、鮭ひお、鮭背腸(さけせわた)など“さけ”の各製品が挙げられ注目されていたことを示している。

 延喜式内社としてというよりも“越の大社”としての鵜坂神社の伝承などからしても、この辺りは、太古からかなり開かれたところであったことを伺わせるのである。

 

中世になって

 中世に入ると荘園制が発達、各地に寺社領や貴族の荘園が作られるようになってきた。当地に関係が深いのは鵜坂御厨(うさかみくりや)と宮川荘(みやかわしょう)である。延文5年(1360)越中における伊勢神宮の御厨として鵜坂が記載されている。御厨というのは、天皇家や伊勢神宮などへ供物や食料として魚介類その他を貢進する所領のことである。当初は魚介類を供物として貢進する人々の居住地域をさしていたのであるが、次第に荘園化して、人々は供御人とされたようである。しかしその範囲はどの程度であったのか明確でない。

 宮川荘この辺りでは最大規模の荘園であったようである。南北朝期から戦国期にかけては徳大寺家の所領となっていたのが、一時守護の手になり、嘉吉3年(1442)再び徳大寺家のものとなっている。その後も、何度もその所領が変わっているところである。

 

近世になって

 寛永16年(1639)前田利次(まえだとしつぐ)が10万石を領して富山藩主となるやいご明治元年(1868)まで、いわゆる富山藩領だったわけである。この頃の鵜坂地区は婦負郡宮川郷と新川郡太田荘に属していた。

 宮川郷には鵜坂村・分田村・田島村・上田島村・宮ヶ島村・島黒瀬村

 太田荘には上轡田村・下轡田村・羽根新村・東本郷村・西本郷村・西塚原村・下板倉村・野替村・和田村・

      上轡田新村・和田新村

がそれぞれ属していた。

 この頃の各村の生活状態などはあまり明らかでないが、農民の階級分離もかなり進んでいる村がおおかったようである。一つの村といっても平均して20軒程度の小集落であった。富山藩が新田開発奨励策をとったこともあって、新しい枝村ができていった時期でもある。

 

明治になって

 明治5年6月 始めて戸籍編制のための区制が敷かれた際、婦負郡宮川郷に属していた鵜坂村ほか5ヶ村は第12大区3小区に新川郡太田荘に属していた上轡田村ほか12ヶ村(この時増田村なども含まれていた)は第8大区5小区となった。

 更に明治9年には新川県から石川県と改称されて、その年の11月再び区画改正が行われて、前者(婦負郡部)は第3大区小5区となり、後者(新川郡部)は第2大区小10区となった。

 明治16年石川県から始めて富山県として分離独立した。その翌年から戸長役場制度が敷かれるようになり、またまた行政区がかわり、前者(婦負郡部)の役場が中名村に置かれるようになり、所属は中名村ほか37ヶ村に編入された。後者の役場は新川郡秋が島村に置かれ、秋が島村ほか37ヶ村に編入になった。

 

鵜坂村成立

 明治22年いよいよ市町村制が施行されるようになると、様々な紛議が出たようである。

 最も問題になったのは、従来の婦負郡に属していた側と、新川郡に属していた側がそれぞれ分離して一村を構成してはどうか?という意見であった。しかし当時の村の構成規模や地勢・水利の点から、或いは旧来の風俗習慣、地区住民の意向、交流、小学校などあらゆる面を考慮して両者が合併して一村を形成することになったのである。しかし増田村は水利などの関係から速星村に合併となった。

 こうしてできた新しい『鵜坂村』の村名は勿論鵜坂神社に起因するのであるが、ここで各村にある神社の統合問題も浮上してきた。また轡田と分田にあった小学校の統合も行われた。

 なお、この時の村全体の戸数は258戸、人口は1,544人となっている。

 

大正になって

 大正3年 未曾有の大水害を被ったりしたが、新しい村づくりが着々と進められた。

 大正10年従来の大字・小字名を廃止して新しく区制とした。

     1区‥‥上轡田 下轡田 下板倉

     2区‥‥塚原 分田 鵜坂

     3区‥‥羽根新 田島 上田島

     4区‥‥東本郷 西本郷 宮ヶ島

 

昭和になって

 昭和15年すなわち皇紀2600年の記念行事として進められた市町村の合併の気運が当地にも及んできた。当初の鵜坂村と隣接する速星・神明・熊野村の4ヶ村で一村を形成しようとする気運が出て何回か協議を重ねてきたが、結局まとまらず、とりあえず鵜坂村と速星村だけで合併が決まったわけである。当時婦負郡の中心にあったので、『婦中町』と命名、昭和17年6月1日をもって発足した。

 この頃の戸数や人口を比較してみると、鵜坂村は266戸 1,670人に対して速星村は630戸2,868人と極めてアンバランスな状態にみえるが、行財政面では全く対等な合併を行った。

 その後太平洋戦争などの影響があって合併が一時停止していたが、戦後の昭和30年・昭和34年の2度にわたって大合併を繰り返し最終的には、旧婦中町に朝日・熊野・宮川の各村、更に神保・古里・音川が合併。

 

現在

 昭和17年鵜坂村の呼称は消滅してしまっているものの、行政面では、鵜坂地区 鵜坂小学校校下として取り扱われ旧来の村根性といわれるくらい根強く、深く硬い繋がりを持って、今日まで生かされている。

 婦中町の著しい発展の中にあって、この地区は特異な変貌をみせているといえる。その一つは昭和40年頃からの極端な戸数の増加である。同時に進行した農地の宅地化の現象である。また企業や公共施設の誘致、交通網の整備、商工業の発達‥‥等々今までの農村地帯の景観が失われ急速に都市化の様相をみせていることである。

 これは交通網の急速な整備と相俟って、自家用車の急激な増加によって、富山市への通勤圏としての性格がつよまり、加えて農地のカドミウム汚染田の復元事業の長期化によっておこった農業離れ、必然的に農地の宅地化に拍車をかける結果を生むという循環作用といえよう。

 要するに富山市のベットタウン化の様相が極端にこの地域に集中して出現しつつあるといえよう。