河上喜一(かわかみ きいち)

鵜坂村塚原 明治31年(18981119日生

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上新川郡熊野村牧忠治郎・やいの長男として生まれた。大正103月塚原河上家に入籍。大正12年鵜坂第2耕地整理組合の書記、大正13年鵜坂村役場書記に奉職。

昭和15年鵜坂村収入役、昭和17年、速星村と鵜坂村が合併して新しく婦中町が誕生するや、その町会議員に当選、常西合口組合に勤務、同21年婦中町助役に選任され、官選の町長から公選の町が誕生するまでの町長公選制への移行の手続きのための助役であり、町長の職務を代行し、公選初代の浅野町長への橋渡し役を果たした。

22年町の選挙管理委員長に推され、厳格な人柄に更なる信望を博した。26年から34年まで町議会議員(三期)を勤め、議長、郡町村議長会長など務めた。

また一方昭和12年に方面委員を委嘱され、23年民生・児童委員と改称されてなお活躍、その間町及び郡の社会福祉協議会長、県社会福祉協議会理事等を兼務、福祉行政の充実に多大な貢献をした。

昭和37年その功により第一回自治功労表彰を受けた。

昭和22年には、婦中町遺族会長の重職にあり上新・婦負郡及び県常務理事の関係団体の要職を歴任、或は昭和22年県護国神社奉賛会常務理事、同神社の責任役員、河上治郎吉氏のあと、44年間鵜坂神社奉賛会会長、同責任役員として活躍。

他方、昭和45年神通川西部土地改良区を創設、その初代理事長として尽力した。昭和48(75)5等瑞宝章を受賞したのを始め、社会福祉功労により昭和42年監綬褒章、厚生大臣・全国社福協会長・県知事より表彰を受けている。他にも農村大臣表彰等、枚挙に逞ない程である。

昭知54年婦中町遺族会創立30年記念誌を発刊、同55年には、神通川合口用水記念碑を建立、土地改良記念誌を発刊

昭和60119日、婦中町名誉町民に推挙される。

昭和60年、婦中町善行児童生生徒表彰基金を寄付し、「河上善行賞」創設。

昭和57年、自らの敷地を寄付することによって「婦中町社会福祉センター」を創設、昭和59年オープンにこぎつけた。

平成3年、同じく敷地を提供することにより、特別老人ホーム「喜寿園」を創設、自らその理事長に就任、平成541日から事業を開始させる。

平成79月、自らの「自分史(小さな私の足あと)」を発刊、その際、感謝状・表彰状は105件に及んだ