鵜坂地区各集落別 変革の概要

(読まれる前に以下のことを‥‥)

主な用語の解説

みくりや

御厨

天皇家および伊勢神宮などに供膳・供祭の魚介類を進納する団体の居住地

鵜坂御厨

ぐん・こおり

国の下にあって、郷(ごう)(り・さと)町・村などを包括した行政区画

大化5年から施工  婦負郡

しょうえん

荘園

8世紀から16世紀にわたる古代・中世社会の基本的な土地所有制度の名称

宮川荘

ほう

中性に通じて存在した所領単位 庄 郷 保 名(みょう)と併称

太田保

くさだか

草高

村ごとの米の収穫量 石高 越中では普通田1反について1石5斗と計算していた 米100表(50石)といえば約3町3反をいう 

ふるだか

古高

新田高(しんでんだか)に対する言葉 村に以前から固定的にある田地の収穫量

めん・めんあい

免・免相

石高に応じて賦課した税率 1ツは1割をさす 3ツ6歩3厘といえば

36.3%の税率である

じょうめん

定免

年によって年貢の取り立ての率を変えないこと

へいきんめん

平均免

一つの村内で、税率の高低をなくして公平な税率を定めること

こものなり

小物成

田畑以外に課せられた雑税の総称 これは原則として銀でおさめ、

村単位で納めさせた

かわやく

川役

川でとれる魚(鮎・鮭・鱒など)に課した税

てあげめん

手上げ免

農民が自発的に願い出て定めた増税率 藩の改作法によって米が増収になった御礼というかたちをとった

きりだか

切高

農民が自分の持田をほかへ売り渡すこと 買うことを「取り高」といった

年貢が納められないためが多かった

あたまふり

頭振

水呑百姓 自分の土地を持たないで、村の自治にも参加できない階層の百姓

たかもち

高持百姓

ごく僅かでも自分の土地を持っているもの

きもいり

肝煎

村の最高責任者 村内のすべてのことをとりしきる

とむら

十村

加賀・富山藩独特の役職 富山藩では250ほどの村を5ツの組に分けて組ごとに有力農民を任命して支配させた

ながひき

永引

水害などで収穫が減じた場合の免税措置

 

 

下轡田

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の間に位置し、すぐ西側を神通川の分流御門川を挟んで御門(みかど)、南は上轡田に接する。享保年間(1716~1735)にくつわだ村が上(かみ)と下(しも)に分離して成立した。

 

近世

 新川郡に属し、万治3年(1660)以降富山藩領。慶長9年(1604)10月前田利長がくつわ田村など4村の野の内に新村を立てる許可を与えている。享保年間の古高は182石余 免35

新田高91石余 平均免1ツ 小物成は銀納林373歩 代銀3匁余 舟2艘役10匁

鮭川役77匁余 鱒川役1匁 梁役3匁 神通川に直ぐ隣接するため享保12年から明和6年までの間に、7回にわたって、水損によると思われる永引が計184石余ある。文政8年(1825)には奥田組に属した。慶応4年(1868)には宮川組に属し、家数37(うち頭振22)人数152(うち頭振73)である。

 集落中央に誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする八幡神社がある。祭礼は4月14日 11月14日である。

 またすぐ横に浄土真宗西派 紫雲山浄福寺がある。この寺は大村城々主 轡田豊後守雅正の長子祐専(ゆうせん)が永禄11年(1568)開いたものと伝えている。開基以来無地子(無税)の特権を有していた。またこの寺の鐘は轡田氏が武士であった頃 戦場で使った陣鐘(じんしょう)であるという。

 室町時代の作と推定される。明治22年新たに「鵜坂村」ができて、その大字一区となった。

 

近代

 婦中町の東部にあたる。旧国道359号線の南側地区 国道沿いのバス停下轡田から南へ500メートルほど入った所に浄福時および八幡神社がある。それを中心に大集落ができている。住宅は国道沿いにもかなり建ち並んでいるが、国道と集落の中間点に自由ヶ丘団地ができている。

 集落南側にはまだ水田地帯が残ってはいるが宅地化が急速に進んでいるのが現状である。今でも鵜坂地区最大規模の集落になってきている。一区にはロイヤルゴルフセンターがある。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

68軒

379人

昭和52年

216軒

883人

平成 7年

382軒

1341人

平成13年

 

 

上轡田

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の間に位置し、直ぐ西側を神通川の分流御門川が流れる。

北は下轡田、南西は御門川を挟んで増田。村名の由来は当地で勢力のあった郷士轡田左衛門尉の名あり、享保年間(1716~36)人口増加のため上(かみ)・下(しも)2村に分立した。

 

近世

 新川郡太田保に属し、万治3年(1660)以降富山藩領。正保郷帳、明暦2年(1656)の村御印留

でも轡田村一村、享保6年(1721)上轡田村の高287石余。寛正2年(1790)の古高123石・定免3ツ5歩8厘 新田高137石余・平均免9歩6厘余、銀納畑1,129歩・代銀16匁9歩3厘があり、小物成は柳差役14匁4歩・舟役10匁・鮎川役5匁5分・簗役3匁・鱒川役1匁・鮭川役79匁5分となっている。

 なお水害によると考えられる永引が寛文7年(1667)から寛延2年(1749)まで10回にわたって計218石余ある。文政8年(1825)には奥田組に属した。幕末には古高135石余・免3ツ6歩 畑作古高232石余・免2ツ6歩 小物成として柳差役17匁4歩・銀納茶6匁1分7厘

鮎川役5匁5分 鮭川役79匁5分 鱒川役・簗役は寛正2年と同じ。

 慶応4年(1868)は宮川組に属し家数30(うち頭振8)人数135(うち頭振25)である。

 誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とする八幡神社があった。大正9年鵜坂神社に合祀された。

 

 

上轡田新

 上轡田村の枝村である。享保6年(1721)の高22石 寛政2年(1790)の新田高16石余・

平均免1ツ8厘 小物成銀5部8厘。 幕末には古高22石余・免1ツ2歩。慶応4年(1868)宮川組に属し、家数3(すべて高持)人数15人。誉田別命を祭神とする八幡神社があった。

 

 

和田

轡田の枝村 上轡田の南西に位置し、クツワダの下2字をとって村名(和田)とした。

享保6年の高21石余 寛政2年(1790)の古高14石 定免4ツ 新田高17石余 平均免1ツ1歩 小物成は川役4匁・柳差役2匁となっている。

慶応4年(1868)は宮川組に属し家数1(高持)人数8

天照大神(あまてらすおおみかみ)豊受皇大神・天児屋根尊(あめのこやねのみこと)を祭神とする神明社があった。

 

 

和田新

 上轡田村の枝村だが、和田村に近かったので、かく命名された。享保6年の高51石 寛政2年(1790)の新田高73石余 平均免1ツ9厘余、小物成は柳差役7匁5分3厘となっている。

 永引が元文3年から宝暦11年までに4階にわたって、計15石6斗余ある。慶応4年(1868)は宮川組に属し、家数10(うち頭振4)人数42(うち頭振13)である。

 天照大神を祭神とする神明社があった。

 

 

野替

 上轡田村の枝村で、もと野飼といって、川中の小島で牛馬を飼育していた。いつころか野替と改称された。享保6年の高20石余 寛政2年の古高1石 新田高57石 平均免1ツ4分 小物成銀2匁となっている。

 慶応4年(1868)は宮川組に属し、家数1(高持)人数9

天照大神を祭神とする神明社があった。

 

近代

 明治22年新たに「鵜坂村」が成立するまで、上記のように上轡田・上轡田新・野替・和田・和田新の5集落があったが、昭和17年あらたに「婦中町」になった際、正式に一括大字上轡田となった。

 旧国道359号線沿いの下轡田の南側に続く、南北に細長い集落である。神通川西岸沿いである。西端にウエスタンゴルフがある。また集落東側のカドミウム汚染田を県が買収、富山県緑化センターを設立 平成8年この緑化センターを拠点に大拡張して、日本海側随一といわれる「富山県中央植物園」がオープンした。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

50軒

294人

昭和52年

70軒

331人

平成 7年

87軒

367人

 

 

分田

神通川中流左岸に位置する。東に鵜坂 西に田島が境する。かっては田島村の枝村であった。

正保郷帳(1644~1648)では田島村に含まれている。

 

近世

 元禄郷帳(1688~1704)では高240石余 享保6年(1721)の高340石 寛正2年(1790)の古高128石 定免3ツ2歩 新田高30石余 平均免9歩7厘 小物成は鮎川役14匁鱒川役2匁5歩 柳差役11匁4歩 なお水害によると考えられる永引が享保5年から昭和3年まで

5回にわたって計212石ある。文政8年には奥田組に属した。幕末には古高156石 免3ツ6歩

畑作古高56石 免2ツ 小物成は鮭川役2匁5歩 柳差役2匁 鮎川役2

 慶応4年の家数16(うち頭振2)人数86(頭振4)である。

 天照大神・豊受皇大神を祭神とする神明社があった。

 

近代

 婦中町の北東部に位置する。旧国道359号線が東西に走る。この地区の中央を町道が南北に走り、住宅は旧国道と町道に沿って続き 住宅地の東部・西部は水田地帯だったが西武に鵜坂団地・緑台団地などの住宅団地が次々造成されている。

世帯数と人口の推移

明治17年

15件

60人

昭和26年

29軒

148人

昭和52年

52軒

209人

平成 7年

289軒

1001人

平成12

353軒

1193人

 

 

鵜坂

 神通川中流左岸に隣接し、西は分田 北は有沢(現富山市)で、有沢の船渡しで富山町に通じていた。

 村名は鵜坂神社に由来し、字義から伺えるように、かっては台地で、比較的水害からは免れていたと考えられる。中世は鵜坂御厨(うさかみくりや)として推移した。

 

近世

 慶長9年(1604)当村・轡田村・塚原村・羽根村(現富山市)の野の新開が許可されている。

 (越中古文書)正保郷帳では高181石余 田方9町1反 畑方3町余 新田高43石余 享保6年(1721)の高182石余 寛政2年(1790)の古高150石余 定免4ツ4歩 新田高29石余 平均免9歩9厘余 小物成は柳差役8匁32分 鮎川役7匁 鱒川役1匁8分6厘 鮭川役875厘 川原役2匁4分6厘 新柳差役2匁となっている。神通川の水損と考えられる永引が寛文2年(1662)から明和4年(1767)まで10回にわたって計73石余ある。

 文政8年(1825)には奥田組に属した。小物成はすべて寛政2年とおなじ。慶応4年宮川組に属し、家数7(頭振2) 人数45(うち頭振18)である。

 

鵜坂新村‥‥鵜坂村の枝村 元禄郷帳では高60石 寛政2年(1790)の古高23石余 定免4ツ3歩 新田高12石余 平均免62厘余 永引も4回にわたって行われている。が、慶応4年には村名はみえないので鵜坂村に含まれたと考えられる。

 

近代

 婦中町の最北東部 東側を神通川が北流し、北は富山市神明町に接する。神通川にほぼ並行して主要地方道富山八尾線が南北方向に走り 集落はこの地方道西に2ヶ所に分かれる。

 1ヶ所は鵜坂神社を中心にした地域 もう1ヶ所は旧国道359号線の南である。この地域の南部一帯は水田地帯である。

 

世帯数と人口の推移

明治17年

4

73人

昭和26年

0

123人

昭和52年

48軒

193人

平成 7

52軒

184人

 

 

塚原

 神通川左岸に隣接し、北は分田 神通川対岸に東塚原(現富山市)

 

近世

 元禄11年(1698)神通川の流路変更によって東塚原村の枝村として成立 西塚原村と称した。しかし、かっての資料(高付帳・県史など)は殆ど東・西合わせて塚原村一村として表示している。元禄11年354石 天保郷帳では560石余となっている。慶応4年 西塚原の家数12軒・人口69人となっている。

寛政2年(1790)の古高48石 定免3.4 新田高15石余 平均免1.33 小物成は鱒川役18匁 鮭川役2匁 舟役(高物成品々手鏡)

 神明社があったが大正9年鵜板神社に合祀された。

慶応4年家数12(すべて高持)人ロ69人

 

 

島黒瀬‥‥神通川対岸の黒瀬村(現富山市)の枝村、はじめて黒瀬村の人々が当地をひらいた頃は川の島地だったからかく命名した。慶応4年の家数3(うち頑振2)人口17(うち頑振7)

神明社があった。

 

近代

婦中町の最東部 東側に神通川が流れる。神通川に並行して主要地方道富山八尾線が南北に走り、中ほどを北陸自動車道が立体交差して、ほぼ東西に走る。住宅は地内全体に散居しているが、周囲は水田地帯であり カドミウム汚染田がかなり多い。南西部には富山県中央植物園がある。南部に婦中町福祉センターをはじめ特別養護老人ホーム 喜寿苑がある。

喜寿苑内には町の介護支援センターおよびデイサービスセンターが併設されている。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

25軒

145人

昭和52年

24軒

109人

平成 7年

72軒

155人

 

 

羽根新

神通川中流左岸と井田川下流右岸の中間地点に位置して、北東は羽根村(現富山市)、南西は田島である。羽根村の枝村である。

近世

 新川郡に属していた、万治3年(1660)以降富山藩領 正保郷帳では新田高122石 田方5町2反余 畑方2町9反 明暦2年(1656)の村御印留では草高127石 免4ツ 小物成は鮎川役1匁 享保6年(1721)の高114石 寛政2年の古高81石余 定免363厘 新田高78斗余 平均免91厘余 定小物成銀19歩 文政8年(1825)には奥田組に属した。 幕末には古高93石余 免37歩 畑作古高14石余 免19歩 小物成は鮎川役1匁 

柳差役4歩 他の柳差役5分 慶応4年(1867)宮川組に属し、家数13(うち頭振6)人数43(うち頑振17)である。

天照大神を祭神とする神明社があった。

 

近代

 婦中町の東北端 富山市に東接する。 東部は旧国道359号線がほぼ東西に走り、この沿線に住宅・商店が建ち並んでいる。ここから水田地帯を経て羽根新中央部にも集落が南北に広がっている。

 この集落の西側は水田地帯である。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

4

146人

昭和52年

62軒

253人

平成 7年

73軒

249人

 

田島

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の中間地点に位置する。北東は羽根新 西に東本郷が接する。

かつては神通川・井田川・御門川の三川に囲まれて島のようであったが、殆ど耕作され田になったので、かく命名されたと伝える。

 

近世

 天正11年(1582)8月20日の知行方目録には『田嶋』とあり、615俵が佐々定能に与えられている。慶長9年(1604)当村の久三郎に対して轡田村などの野を開くことを許可されている。同年以降鮭役30尺が定められている。正保郷帳では上田島村・分田村を含んで高367右余 田方68反・畑方76反余 新田高236石余 享保6年(1721)の高589石余  寛政2年(1790)に古高429石 定免423厘 新田高73右余 平均免139厘 銀納畑1333歩 代銀15匁9厘余があり、小物成はさ鱒川役10匁1分 惣川役68匁7分3厘 舟役15匁 なお水損によると考えられる永引が寛文3年(1663)から元文3年(1738)まで6回にわたって233石余ある 文政8年(1825)には奥田組に属した。幕末には古高448石余  免43歩 畑作古高81石余 免26歩 他の畑作古高23斗余 免18歩 銀納畑482厘 小物成は鮭川役68匁73厘 鱒川役は寛政2年と同じ。   

慶応4年(1868)宮川組に属し、家数34軒(頭振8)人数148人(うち頭振25)である。

 集落東方の浄土真宗本願寺派雲龍山覚法寺(かくほうじ)は明応5年(1496)『越中寺』として開基され、寛政9年現在名に改称したと伝える。誉田別大神を祭神とする八幡神社があった。

 

近代

婦中町の北東部にあたる。旧国道359号線が東西方向にはしる。国道わきに、日露戦争出征兵士の碑が建っている。その地点から県道田島二俣線が北西方向に延びる。住宅は国道および県道沿いに建ち並んでいる。この地区の南半分に集中していたが、次第に地区全体に広がりつつある。

西側を北陸自動車道が走り、富山県中央自動車学校のある付近で旧国道と立体交差している。

この地区北半分は水田地帯であるが、イノベーションパークの誘致を始め、住宅団地が急増している。

 

世帯数と人口の推移

明治17年

50軒

159人

昭和26年

58軒

311人

昭和52年

119軒

511人

平成 7年

245軒

904人

 

 

上田島

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の中間地点に位置して、北は田島村、東は分田村。田島の枝村で親村の上流に位置したための村名。正保郷帳(1645)では田島村に含まれている。

 

近世

 元禄郷帳(1688~1704)では高58石 享保6年(1721)の高69石 寛政2年(1790)の古高34石余・定免385厘 銀納畑250歩 代銀75分があり、小物成は鮎川役63厘 なお水損と考えられる永引が寛文7年(1667)から元文3年(1738)までに5回にわたって計23石余ある 文政8年(1825)には奥田組に属した。幕末には古高40石余 

39歩 畑作古高11斗余 免14

 慶応4年(1868)宮川組に属していた。家数3(うち頭振2)人数10(うち頭振5)である。

 

近代

 婦中町の北東部 北陸自動車道を境にして、田島に北接する。旧国道359号線が走る、南部は住宅地。北部は水田地帯であったが、次第に宅地化されてきている。田島川が中央部を南北に流れる。 旧国道沿いに鵜板農協(JA)、南端に町立鵜坂小学校がある、西部に町立鵜坂保育園が新設された。

 

世帯数と人口の推移

明治17年

3軒

16人

昭和26年

23軒

131人

昭和52年

67軒

239人

平成 7年

93軒

332人

 

 

東本郷

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の間に位置し、すぐ西側を神通川の分流御門川が流れる。

北は西本郷 東は田島に接する。西本郷の枝村である。

 

近世

 新川郡に属し、万治3年(1660)以降富山藩領。元和元年(1615)の検地では先高181石余 うち川崩れ分9石余を引いて当高172石 免32歩 正保郷帳では当村は西本郷村に含まれている。明暦2年(1656)の村御印留では草高179石 免38歩 小物成は野役13匁 鮭川役43匁 鱒川役4匁 鮎川役5匁 猟船楷役10匁 享保6年(1721)高170石 寛政2年(1790)の古高157石 定免43歩 新田高68斗余 免3ツ 銀納畑550歩 代銀385厘 小物成は鮭川役21匁5分となっている。

 水損によると考えられる永引が寛文10年(1670)から元文4年(1739)までに2回にわたって計48石ある。灌漑は、かつて徳兵衛が中心になって開通したと伝える本郷用水を使用。

天正12年(1584)の洪水で神通川からの取り入れ口が流失したので、改築して現在まで利用している。

 慶応4年 為成組に属し家数17(うち頭振10)人数79(うち頑振44)

 建御名方命を祭神とする諏訪神社があった。

 

近代

 婦中町の北東部 南北に細長い地域。東本郷の中程を、県道田島二俣線と北陸自動車道が並んでほぼ東西に走り、西接する西本郷との境界付近でJR高山本線と交差する。町道西本郷御門線がほぼ南北に走り、住宅はこの道に沿って南部地帯と北部地帯にそれぞれ集落を作る。集落の周囲は水田地帯である。南端を国道359号線が東西に走る。中心部に富山県農業機械センターがある。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

23軒

135人

昭和52年

20軒

97人

平成 7年

23軒

125人

 

 

西本郷

 井田川中流右岸に接し、すぐ南側を御門川が流れている。北は井田川を挟んで金屋(富山市)、南は東本郷。もとは単に『本江(ほんごう)』と称していた。東本江村の分立とともに西本江村になる。

地名の由来は太田本郷の郷長がいたためという。

 

近世

万治3年(1660)以降富山藩領 元和5年(1619)西本郷村の「古川筋乃所」の新開が命ぜられた。正保郷帳では高337石余 田方20町2反余 畑方2町3反余 新田高296石余 

明暦2年(1656)の年貢割り付け帳(岡崎家文書)では草高655石 免36歩 

小物成は野役13匁 鮭川役43匁 鱒川役4匁 鮎川役2匁  享保6年(1721)の高874石 寛政2年(1790)の古高802石余 定免47歩 新田高12石 平均免135

井田川の水損によると考えられる永引が寛文11年(1671)から元文3年(1738)まで11回にわたって計141石余ある。

 文政8年(1825)には西本江組に属していた。慶応4年(1868)為成組に属し、家数22(うち頭振21)人数136(うち頭振123) 建御名方命を祭神とする諏訪紳社があった。

 井田川・御門川に隣接し洪水を受けることが多かったが、水利がよく肥沃であるため開拓の歴史が古いことが、当地に伝わる『島の徳兵衛伝説』からも伺える。

近代

 婦中町の北東部 井田川がこの地区の、西端から北端にかけてながれる。南端は北陸自動車道が走り、東は深田排水が境界になっている。深田排水に沿ってJR高山本線が水田地帯をはしる。

直ぐ横にイノベーションパークが広がる。全域水田地帯だったが最近急速に宅地化が進んでいる。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

23軒

145人

昭和52年

45軒

203人

平成 7年

118軒

406人

 

 

宮ケ島

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の中間地点に位置し、北は田島 西に下板倉(現下坂倉)に接する。元和8年(1622)の前田利光印判状(岡崎家文書)に村名がみえる。

 

近世

正保郷帳では高260石余 田方12町9反余 畑方44反 享保6年(1721)の高268石 寛政2年(1790)の古高268石余 定免37歩 新田高13石余 平均免171厘余 銀納畑1016歩 代銀15匁2歩 小物成銀5匁  水損によると考えられる永引が享保

13年から宝暦8年(1758)まで2回にわたって計54斗余ある。文政8年(1852)には西本江組に属した。幕末には古高268石余 免38歩 畑作古高19石余 免24歩  小物成鮎川役5匁のみ 慶応4年(1868)為成組に属した。家数10(うち頭振3)人数30(うち頭振4)である。現八尾町(当時室牧村)の宮ケ島と混同しやすいので明治15年の郵便条例実施のとき下宮ケ島村と改称されたが、その後元に戻った。豊玉姫命を祭神とする龍王神社があった。

 

近代

婦中町の北東部 東本郷に北と西の境に接する。東に接する下轡田との境は住宅地で複雑に入り組んでいる。南部を国道359号線がほぼ東西に走っている。住宅は国道南部に密集しており、この東部に宮ケ島団地がある。国道以北は住宅が散居しているが、まだかなり水田が広がっている。

 

世帯数と人口の推移

明治17年

13軒

48人

 

昭和26年

19軒

54人

 

昭和52年

101軒

338人

(団地を含む)

平成 7年

120軒

321人

(団地を含む)

 

 

下板倉(下坂倉)

 神通川中流左岸と井田川中流右岸の中間地点に位置し、すぐ西側を御門川が流れる。東は下轡田 南が増田、轡田村の枝村であるが、最初の開拓者が板倉村の者で、板倉村の下流に位置していたので、かく命名されたという。

 

近世

 新川郡に属していた。元和8年(1622)の前田利光印判状(岡崎家文書)に『板倉村』の名がみえるが、内容からみて当村をさしていると思われる。明暦2年(1656)の板倉村年貢割り付け状(同文書)も当村のものと思われ、草高86石 免32歩 小物成は野役2匁 猟船楷役5匁 

鱒役1匁 鮎役1匁 元禄郷帳では高159石 享保6年(1721)の高57石余  

寛政2年(1790)の古高57石余・定免34歩 新田高22右余  平均免67厘余

小物成は野役2匁 鱒役1匁 鮭役3匁 鮎役1

水損によると思われる永引が元禄9年(1696)と元文3年(1738)の2回にわたって

計10石7斗余ある。文政8年(1825)には奥田組に属した。 幕末には古高65石余 免27歩 灌漑は本郷用水を利用。

慶応4年(1868)には宮川組に属していたと思われるが、郡方人別書上帳に村名がない。

 

近代

婦中町の北東部 旧国道359号線沿いの水田地帯にある。国道が東西に走り、その南側に新興住宅地がある。住宅地南端には、県雇用促進住宅ができている。住宅地のなかには駐車場・商店も多い。

 西側は本郷用水で速星に接している。国道沿い東隣は宮ケ島である。

地区の南部一帯は水田地帯である。

 

世帯数と人口の推移

昭和26年

昭和52年

107軒

346人

平成 7年

40軒

141人