鵜坂地区の主な家紋

家紋のおこり

家紋はそれぞれの家の標識、名字、称号の目印として用いられた図案である。家紋のおこりは平安時代に公家が自分の牛車を識別するために用いた装飾文様であるといわれる。それが鎌倉時代になると武家のあいだで戦場での旗印や幕の印として使われ戦国時代に大流行した。軍事的意味を失った江戸時代では武士が自家の威厳を示すものとして用い、しだいに装飾化していった。

それが民間でもまねられるようになり近代では紋服の礼服化にともなって一般化したのである。

 

木瓜紋(もつこもん)

 丸に横木瓜       丸に大木瓜      石持地抜木瓜      堅 木 瓜

この木瓜紋が圧倒的に多い。県下での木瓜紋の比率は35%にもなり比率の高さは抜群である。

一つの紋がこれほどに多いのは他県でみられない。これは越前、朝倉氏の木瓜紋が一向衆徒に拡まったことと、紋の形が美しいこと、また木瓜紋は子孫繁栄の意味を持つ縁起の良いものであったことなどから家のルーツとはあまり関係なく、拡がったといわれている。

木瓜紋は(果紋)ともいわれ地上の鳥の巣を表したもので神社の御簾(みす)や帽額(もうこう)に多く見られることから木瓜という名がついたといわれている。

またこの木瓜紋は全国で1000種類ちかくもあるそうだが、鵜坂地区で数種類(9種類程?)でなかろうかとおもわれる。

(砂川、島坂、島崎、藤井、島田、井村、吉田、深野、赤田、小杉)

 

五瓜唐花(いつつうりにからばな)

 織 田 瓜      丸に織田瓜       五瓜唐花      丸に五瓜唐花

 いづれも木瓜紋の変形したものと思われる。

(佐々木、松島、島田、松原)

 

沢潟紋(おもだかもん)

 この地区で木瓜紋に次いで多いのがこの沢潟紋である。(県下では7位ぐらい)。この沢潟紋には葉だけのものと、葉と花を合わせた花沢潟がある。葉の紋では1つ沢潟から

9つ沢潟まであり、これに水を配した水沢潟がある。

鵜坂神社の御神体の台座がこの沢潟が画かれている。

 
立 沢 潟     丸に立沢潟

 その関係からか旧鵜坂集落周辺にこの沢潟紋が多い。

(高柳、高島、藤野、山田、田中、小林、金岡、北村、松田、板井、島田、中田、野村)

蔦紋(つたもん)

   蔦         丸に鬼蔦       丸に中陰蔦      丸 に 蔦

 

蔦紋はぶどう科の植物、蔦の葉を図案化したもので家紋になったのは晩秋には楓のように紅葉する美しさが好まれたものと思われる。江戸時代には松平氏がこれを用い将軍吉宗が使用してからは家紋として拡まった。市井では芸妓娼婦が蔦紋を好んで用いたが、これは姿の優雅さだけでなく蔦のつるが絡まって繁茂するさまがなじみ客として終生離れないことを願う意味に通じたといわれる。

(田中、赤池、吉野)

 

笹紋(ささもん)

笹紋の中でもこの地区では殆どが9枚笹紋である。

そのルーツは、明確ではないが竹は文様として御袍(ごぼう)に古くから用いられた。「年中行事」「源氏物語」

 
 十五枚笹丸     九枚笹丸      三枚笹

などに竹丸「9枚ささ」が出てくる。鎌倉時代には「牧」として用いられやがて家紋として定着したようである。徳川時代に急激にふえて竹丸が十家ささ丸(3まい笹、9枚笹、十五まい笹など)が約180家をこえたという。

 竹紋はきわめて多くのカタチがあり、バリエーションにとんでいる。

(竹内、藤井、岡崎、西田、藤堂、青山、清水、角間)

 

 茗荷は「冥加」と同じ発音であるので縁起が良いとされており戦国時代以後天台宗の摩多羅神(またらしん)の神紋として用いられた。殆ど「抱茗荷」か「丸に抱茗荷」だがこの他には対い茗荷、違い茗荷、尻合せ茗荷、茗巴、花茗荷などあるようである。

(中田、安川)

 
茗荷紋(みょうかもん)

 抱 茗 荷      丸に抱茗荷

 

橘紋(たちばなもん)

 橘氏は敏達天皇の皇孫の出で貴い家柄だったが藤原氏におい出されて橘氏一門はほとんど滅んでしまった。

それ以来橘紋を用いるものが非常に少なくなってしまった。その末孫が地方にくだり武家が多く用いたという。

(久郷、野上、野尻、藤井)

 
 


丸 に 橘      五瓜に橘

 

 

藤紋(ふじもん)

 徳川時代にこの藤紋が急激にふえたといわれる。大名家では9家、旗本で160氏に及んだ。藤紋は勢力のある武将がこれを用いた例は少ないようだが公家では多かった。

但し余談だがかつての藤原氏やその出のものでも藤紋を使用していない。姓に藤のつく家(藤井、佐藤・・‥など)も必ずしもこの紋を使用したようでもない

下 り 藤    丸に下り藤     丸に上り藤

(山崎)

 

 

梅鉢紋(うめばちもん)

 梅は古くから文様として用いられた。建永年間(120607)藤原信実の作といわれる「北野天満宮」の絵巻物に梅の文様を描いたものが多い。菅公(菅原道実)をまつる天満宮は神紋として梅紋を用いている。加賀前田家は菅原姓に出自があり、前田家が荒子城時代から天満宮信仰があったことから前田家が梅鉢紋を用いるようになったといわれる。

 後前田氏の宗支を通じて梅鉢紋であり、替え紋は用いていない。江戸時代、一般庶民は特別の事情のない限りこの梅鉢紋は使用しなかったという。

丸に梅鉢        丸に剣梅鉢

(野村、岡本)

 

 

 

 桔梗紋がはじめて出てくるのは「太平記」からである。戦国時代では明智光秀、加藤清正がこの紋を用いてい

る。なかでも明智光秀の「水色桔梗紋」は信長を激怒さ

せたという日くつきのものである。当地区では殆ど見受

けられないから貴重な事例といえよう。

(中島)

 
桔梗紋(ききょうもん)

丸に桔梗   桔梗  石持地抜桔梗

 

片喰紋(かたばみもん)

片喰紋は桐紋に次いで植物紋の中で多いといわれる。形が簡素で優美なためといわれている。

3葉片のものが基本であるが、葉が一葉のものから5葉まである。江戸時代には多くの武家が家紋

としていた。この地区で見られるのは「丸に剣片喰」、「丸に片喰」である。

(宮崎、中島)

 

 
酢 奨 紋   剣 酢 奨   丸に酢奨   丸に剣酢奨

 

鷹の羽紋(たかのはもん)

 「鷹の羽紋」は徳川時代になってから急激にふえ大名、旗本を合わせると113家という。

元禄15年(1702)の四十七士の主君浅野家の家紋が有名になったがこの鷹の羽紋のカタチが

すこぶるバリエーションに富んでいる。約60種近くあって大別しても「一ツ鷹」「五枚鷹」「ちがい鷹」「よこ鷹の羽」「鷹の羽ぐるま」「羽うちわ」などがある。

(笹倉、前野)

 
丸に違鷹の羽   丸に右重違鷹の羽

 

鱗紋(うろこもん)

 鱗紋は三角形の連続する鱗織文様を最小三ツ以上切り離して家紋としたもので鎌倉時代北条氏の紋として知られている。この紋は龍の鱗をかたどったといわれているが、鵜坂地区にあるものは独特の一ツ鱗でしかも鱗の中(三角の中)は切り抜きになっている。

これは「蛇のうろこ」といいつたえている。「島の徳兵衝」こと岡崎家独特のものである。

一ツ鱗       丸に三ツ鱗      三 ツ 鱗

 

 

 

 

柏紋(かしわもん)

樫は葉がひろく、また厚いのでものをのせるのに適している「柏」は「もてなし」の花ことばを持つのと通ずる。柏は神木として尊重されるようになり、神職の家紋として定着してきた。

三 ツ 柏      丸に三柏      丸に剣柏

 

柊紋(ひいらぎもん)

丸に抱柊

 紋は全国で33種もあるそうだが、当地区では丸に抱柊紋1種である。柊はもくせい科の常緑樹で古代ではこの木を使って矛(ほこ)を作ったという。節分には悪魔退散の意味で柊の杖を竹串の鰯(いわし)の頭と一緒にさして門に立てたといわれる。

 

 

桐紋(きりもん)

丸に五三桐       五三桐

 桐紋は普通花の数によって分類される。中央の茎に五つの花があり両側の花が三つあるのは「五三の桐」といいこの形式が最も多い近代的明治維新になって政府は大礼服の服装、政府発行の文書、賞盃などに多く用いるようになった。