越の大社 鵜坂神社

 

沿革の概要

 第10代崇神天皇の御代 北陸道将軍大彦命の勧請によって、白雉年間(650~654)堂宇を再建されたのが、当社の始めと、考えてよいであろう。

 昔から年に72度の神事を厳修してきたといわれる。続日本記とか、三代実録によると仁明天皇の承和13年9月(845)従5位(土地8町歩賜る)に進み、清和天皇の貞覩年中(859~879)数度神階を進められ、ついに縦3位(土地34町歩賜る)に達した。緒神記によると醍醐天皇の寛平9年12月(897)正3位に進み、以来 歴代ごとに神階が昇進して後鳥羽天皇の元暦23月(1185)に正1位に達したと記されている。

 朝野群載には 白河天皇の承暦4年(1080)、堀川天皇の康和5年(1103)に御上奏により勅使を当社に遣わされ、中秡を科したことが記されている。歴朝の崇敬極めて厚く、宏壮を極めた。

聖武天皇の天平13年(741)、諸国に納経造寺の詔が出されて以来、仏教が普及してくると、紳仏混こうの風潮が生まれてきたので、名神大社は、浄穢よけとして別当寺、社僧を配するようになった。当社も鵜坂寺を置き社僧をぞくさせ社殿堂塔は豪壮を極めた。

 しかし 治承3年(1179)源義仲の兵火にかかり焼亡したが 源頼朝が再建し、鵜坂寺を始め12ケ村を社領としたので やや旧観に復したが 天正4年(1156)上杉謙信の乱入によって放火され また神通川の転流などの水害にあい 坊舎などが離散し、往時の盛観をみることができなくなった。

 明治68月(1873)社格令が制定されると、昔からの神徳の高さから 新川県から県社に列せられた。しかし当時の氏子は18戸に過ぎなかった。大正4年11月9日(1915)新鵜坂村各集落の19社が合しされ、その後昭和46年(1971)に拝殿 

昭和60年(1980)に境内玉垣、平成に社務所を造営 現在に至っている。

 

鵜坂山鵜坂寺とうはんじ)

 称徳天皇の御代(764~770)僧行基が勅を奉じて、鵜坂明神の別当寺として24院及び7堂伽藍を建立したとつたえる。真言宗であった。惣号を鵜坂山(とうはんざん)或いは高柳山(こうりゅうざん)鵜坂寺と称した。

 しかし越後の上杉謙信が越中に乱入(永禄6年1563)の際、悉く兵火にかかり、数坊の社僧共退散して、宮守一坊だけ残り、どうにか明治のはじめまでその法灯を守ってきた。

しかるに明治23月になって、廃寺となったのである。

 この鵜坂寺の領地は宮地の北側にかなり広大なものであったらしいが詳細はわからない。

 またこの寺の墓地が宮の西100メートル位のところにあり、石塔・石仏が散乱していたのを、

昭和38年ごろ整理した。年号銘を刻した石塔には、あまり古い物が見当たらないが、石仏や五輪塔や一石五輪塔には室町時代までさかのぼるものがあるから、中世からの一山の墓地であったことがしのばれる。またさすがに鵜坂寺の墓地だけあって墓標の無縫塔など堂々としている。

この鵜坂寺のことが見えるのは富山市八町吉祥院の過去帳や、富山市梅沢町来迎寺に伝える昆沙門天の銘文によって知られる程度である。

過去帳などから鵜坂寺1世秀尊大僧都から第75世観実大僧都まで連綿と継承されてきたことを示している。

 

鵜坂寺の末寺

鵜坂寺は滅んでしまったが、その末寺であったと伝える寺がいくつかある。

射水郡三十三ケ村徳常院    射水郡小杉町大江西高木の光専寺

富山市布瀬町の順正寺     富山市萩原の栄正寺 などがある。