鵜坂神社の基礎を開いた

北陸将軍大彦命のこと

テキスト ボックス:  第8代孝元天皇の皇子。第10代崇神天皇の時、古代日本連合国建設と大和朝廷の基盤成立と拡大をはかるために設立されたのが、山陰、山陽、東海、北陸の四道将軍で、その内の一人で、北陸を担当したのが、この大彦命です。若狭(福井県)の郷で屈強の浜子10人を得て、舟にのって、今の岩瀬辺りに上陸、呉羽丘陵をつたって、荒地山(八尾町)まで、軍を進め伊豆部(いづべ)山(八尾・桐谷・夫婦山)のふもとに本営を置いたといわれます。

大彦命は、進んだ中央文化と武力と政治感覚を背景に、民情視察、開拓指導をしながら、大和朝廷のイメージアップを図り、その支配下におさめていったようです。山また山に囲まれる、きびしい自然環境の越中は、熊野神社などにみられるように、海上ルートによって進出してきた出雲の色あいの強い文化が拡がっていったものと想像されます。

そこへ、高天原の大和政権勢力がおよんできたわけです。こうした実情から「人心掌握」の手だての一つに「神」がありました。恐らくこの頃は、神々の系図の完成にあと一歩のところでしたので大彦命のもたらした神は、高天原系の神々の中でも、あまり耳なれぬ神々が多かったように思われます。それをまた押しつけるのでなく、その土地の民意に沿うように、すでに祀られている神々を再評価したりしながら、無理のない、土着のイデオロギーの中に、高天原系の神々を導入し、形をととのえていったのが、平安初期にまとめられた「延喜式」に登載されてくる、鵜坂、杉原、速星、熊野の四社であると考えられます。

当然、「式内社」というには、大和朝廷とも関係を持ちながら、神威も高く、これをまつる部族勢力も強大であったればこそと思われます。その布石を大彦命によってなされたといっても過言ではないと思います。ちなみに、こうした朝廷つまり天皇の歴史がはっきり見えはじめるのはずいぶんあとのことで、33代推古天皇(在位592〜628)のころになります。

鵜坂神社の祭神を例にとって大彦命の人心掌握の仕方を述べてみますと、鵜坂神社に既に祀られ、土地の人々から崇敬されていた、姉比(ねひめ)妻比(めひめ)の両神の親として、面足(おもだる)惶根(かしこね)両神を祀ることで、夫婦、親子とのつながりから、生産、豊穣の神威を大きく出させたものと考えられます。

特に両神とも女神であることから、成長、結婚、お産、そして女体の神秘性を考え合わせて、婦中町の各社の中でも一歩抜きん出た社格で伝承させるようにしたものと考えられます。