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「鵜坂河」を渡った

万葉の歌人大伴家持のこと

古代国家建設と天皇制確立という、大きな歴史の流転の中で、大伴氏はとくに672年の壬申(じんしん)の乱に武名をあげ、律令国家の忠実な官僚としての地位を築いた武門であることを自認する部族団結意識のつよい一族でありました。武人でありかつ文人であった大伴旅人(たびと)(665~731)の53才の時、その第二夫人との間に家持が生まれました。

少年時代は(727~730)九州大宰(だざい)府ですごしますが、少年時代は(727~730)九州大宰(だざい)府ですごしますが、この頃から歌の勉強をはじめたようです。京にもどると、すぐ父と死別しています。その時家持13才、朝廷では743年、大佛建立の詔を出し、その財源のねん出を地方に命じます。国をあげて、東大寺、大佛建立にあおられます。

その財源確保のための税金のとり立て、労力の提供等大変なものであったと思われます。

そんな折、天平18年(746)29才の家持が、越中守を拝し、伏木の越中国府に若い赴任となりました。単身赴任のさびしさをまぎらわすための方策だったかも知れませんが、万葉集の編纂に力を注ぎました。この頃の越中は河川が多い為、まだ開拓なかばの状態でありました。国が田地などの多少によって、ランク付けされた「大・上・中・小」のうち、上の国の部にランクされるのは800年すぎの頃でした。

天平勝宝3年(751)、5年の任期を終えて、小納言となって帰京します。翌752年ついに大仏開眼、その後、家持は色々の官を歴任しましたが、757年彼のもっとも良い庇護者、理解者で万葉集編纂の協力者でもあった「橘諸兄(たちばなもろえ)」がなくなります。

橘諸兄の死は、中央政界のバランスを崩し、為に政治事件が相次ぎ、家持自信どちらかと言えば、政治に向かないタイプでした。それが知らず知らずにドロ沼の中に入り込まざるを得なくなってしまいました。

家持はこの事件後67才で(785年)病死したのですが、事件に激怒した天皇は、家持を張本人として遺骨のまま官位剥奪、彼の息子共々隠岐島に流罪とし、一族も大量処刑されたといいます。

天皇は晩年、大伴一族のために名誉回復措置をとります。よって細々ながら、大伴氏が立ちなおり、流罪になった大伴国道の子が、伴大納言にまで出世しますが、866年応天門の放火犯となり、大伴一族ことごとく絶えてしまいました。