仏の徳兵衛”こと岡崎徳兵衛家

歴代、富山藩の十村役に

 

婦中町鵜坂の西本郷。奈良時代の天平20年(748)ごろ、当時、越中の国司だった大伴家持が馬で渡り「鵜坂川 渡る瀬多み 此のあが馬のあがきの水に衣ぬれにけり」と詠んだこの鵜坂地区。天平の昔をとどめる面影も無いのが当然だろうが井田川にかかる売比(めひ)川橋のたもとに、天正10年(1582)から約400年間も続いた岡崎徳兵衛家の広大な屋敷跡は、新しい住宅団地と化し、多くの人が移り住んで昔日の面影はない。

“仏の徳兵衛”。かつての地元では、岡崎家をこう呼んだ。

<川原の開拓でクワに当たって死んだヘビのためにヘビ塚を造った徳兵衛は、ある時、子供たちが捕えているマス(ヘビの化身)を買い取って神通川に放してやった。そのヘビはやがて徳兵衛の召使いになり、よく働き、そのため徳兵衛の田畑は次第に増えた。そして徳兵衛の嫁となり、身ごもるが、産屋(うぶや)を見られたためヘビに戻り、鱗(うろこ)形の護札(まもりふだ)を残して姿を消す。しかし、間もなく大きな木が流れつき、徳兵衛はその木で立派な家を建て、それから徳兵衛の家はますます栄えた。>=婦中町に残る伝説から=。この伝説の主人公は、岡崎家中興の祖の徳兵衛である。大蛇(じゃ)伝説のパターンは各地にみられるが、この伝説は、神通川と井田川の洪水のはさみ討ちと闘い、開拓したり、水田を守ったり、あるいは水の恩恵によって栄えてきた岡崎徳兵衛家の歴史の側面を物語る。

しかも「丸に鱗」の家紋は、この伝説を象徴している。

岡崎家の先祖は升形城(魚津)の城主。岡崎四郎義村といわれる。江戸時代は十村役(大庄屋)を歴代勤め、農民と藩との間に立って藩全体の農政に大きく関わってきた。また明治に入ってからも代議士として、あるいは漢詩人として活躍した藍田翁。東北大学教授文学博士で中国史家として有名な文夫氏。約400年続いた元の家、屋敷は無くなっても、これら岡崎家の血は今日も多彩に脈打っている。「見よまいか 見まいか 見よまいか 島の徳兵衛の嫁 見まいか お椽(えん)に七さお座敷に八さお 椽の出端に九さお」-。サンサイ踊りに歌われた岡崎徳兵衛の栄華の夢の跡の鵜坂地区の西本郷。かつては見渡す限り美田の中だった。約一万平方メートルもある屋敷の周囲には塀があり、神通、井田川の堰(せき)を落とせば、浮き城ともなることから富山藩の隠し砦(とりで)ではなかったかといわれる岡崎家。農民であっても名字、帯刀を許され、屋敷には馬場、矢場もあった。庭には松の大樹があり、モミジの名所でもあって、富山藩主もしばしばここを訪れている。明治時代は梧竹鳴鶴、天来などの文人墨客の憩いの場ともなり、庭の池の洗硯池では濫觴(らんしょう)の故事にならって酒もくみ交わされた。さらに井田川に舟を浮かべ、宴を張ることもあったという。明治43年6月19日、当時、国民党総裁だった犬養木堂が同家を訪れた時の園遊会には、県内の知名士、文化人ら百人が招かれたという。

 鵜坂地区は、神通川と井田川が入り乱れ、この万葉のふるさとも、岡崎家の中興の祖徳兵衛が住みついたころはアシの草原。三代目までにこの荒野を開拓、千石(約66ヘクタール)の美田に変えた。

時代は変わって昭和20年の敗戦一農地解放までその約千石の持ち高は増えもせず、減りもせず、代々受け継がれて来た。このような豪農、大地主は県内でも珍しい。

 富山藩の最大の農民一揆(き)といわれる文化10年(1813)の一揆では、悪徳地主や商人の多くがバンドリを着た農民に夜襲をかけられ、打ち壊しにあっているが、岡崎家は少しも被害を受けていない。また天保7年(1836)翌8年の大ききんの時には、米蔵を開け、おかゆを炊き出し、富山城下からもそれをもらいに列ができたとさえ伝えられる。大洪水による被害、凶作の時には年貢の減免に農民側に立って藩を説得した岡崎家の人たちが多いーとされる。

「人徳第一、これが岡崎家の家訓だったようだ。だから、小さい時は自分でお金を払うこともさせられなかった。ゼニ勘定させればいやしい人間になるとでも考えられていたようだ」

 現在の岡崎家は富山市五艘にある。富山大学付属小学枚のすぐ近くのひっそりとしたたたずまい。前当主故卯一氏は、富山県考古学会幹事として埋蔵文化財の保護、発掘に活躍した。父親文夫氏の後を継いで京都大学史学科を出て、同大学付属の東方文化研究所の助手を勤めていたが、敗戦が卯一氏の人生を大きく変えてしまった。食糧難のために郷里に帰り、自ら耕作した。

しかし、小さい時から学者の子として育てられた卯一氏の肉体は、重労働についてゆけなかった。そして学枚の教師としての生活。昭和33年には婦中町西本郷の家、屋敷を人手に渡して現在の五艘に転居した。富山藩時代に岡崎家がゆるぎない勢力を持っていた理由の一つに、同じく御扶持人十村を勤めた高安家(富山市布瀬)との複雑にからみ合った濃い血縁関係があげられる。徳兵衛の孫さわ(高安家13代松次郎の娘)は富山藩主前田利隆(4代目)のタネを宿し、側室として御殿入りすることになっていたが、婿を取って高安家を継いでいる。利隆の落胤(らくいん)の松太郎は25才で早死にしたが、その妻は徳兵衛の娘たみで、松太郎の死後、富山藩士に嫁いでいる。

 2代藩主正甫のとき、高安家の屋敷内に建てられた菅神祠の“おたまや”には歴代藩主の位牌(いはい)が安置されていたが、大正3年の大洪水のあと、西本郷の旧岡崎邸に移されていた。

しかし、岡崎邸も昭和32年には取り壊され、“おたまや”は現在、富山藩主の菩提(ぼだい)寺の大法寺(富山市梅沢町)境内に建っている。明治からの岡崎家は中国文化研究家として3代にわたっている。明治の最後の漢詩人であり、南画家であった藍田翁。中国の代表的南画家・呉昌碩の為書の絵がある。藍田翁は欧米文化に批判的で中国の文化に心酔。呉昌碩など中国の文人とも親交が深かった。大正15年には息子の文夫氏と中国を旅行。紀行詩画集「燕鳥越鴻」を残している。

 この藍田翁の中国文化研究所の夢を実現したのは文夫氏といえよう。文夫氏は四高、京大と進み、哲学者西田幾多郎の門下生。大正8年から三年間中国に留学、14年にフランス、イギリスにも留学した。昭和10年文学博士となり、24年の定年退官まで東北大学教授を勤めた。

著書には「魏晋南北朝通史」「南北朝に於ける経済制度」「古代支那史要」「江南文化発達史」「司馬遷」「支那史学思想の発達」など8冊がある。文夫氏は特に南北朝を中心とする中国史の権威だった。

卯一氏ももともと中国史の研究家。「出来ることなら中国の埋蔵文化財発掘に協力してみたい」と夢を抱いていた。新版「婦中町史」の監修者でもあった。

 

(追記)

 岡崎家の由来

岡崎徳兵衛の先祖は升形城(魚津市松倉)の城主岡崎四郎義村とされる。「加越能三州地理志稿」や   享和3年(1803)に書かれた「前田家(富山藩)文書」によると、四郎義村が升形城に拠(よ)ったのは室町時代初期の応永2年(1395)6月2日。その子孫が歴代、テキスト ボックス:  
岡崎家の家紋
四郎義村を名乗っていたが、戦国時代の天正年間(1573年以降)に上杉謙信に攻め落とされ、そのときの城主義村の末っ子が逃げのび、魚津に流浪。その後宮ケ島(婦中町)に移り住み、帰農したことになっている

同家には武将などが戦場を持ち歩いたミニ厨子(ずし)に入った念持仏(高さ3センチ)が保存されていた。このように、県内でも由緒の古い岡崎家であるが、その系図は、大正3年の洪水で流失。くわしいことはわかりにくい。しかし、現在保存されている重要な1枚文書は、県内でも貴重な古文書の一つ。

 佐々成政の禁制をはじめ慶長5年(1600)の開拓許可状や前田利常の藍印状など20通が、帰農した岡崎家の開拓の歴史を証明している。

成政越中入りしたころは、すでに岡崎家は名主(みょうしゅ)層になっていた。成政の禁制「一、濫妨狼藉事 一、放火事 一、不謂儀申懸事 右条々堅令停止訖若於違犯輩可処厳科者也」(暴力や放火、無理難題を仕掛ける者は厳罪に処する)の日付けは天正10年(1582)6月24日。成政、利家、勝家の連合軍が魚津城攻めで上杉勢を破ったのは同年6月3日。それから1カ月もたたないうちに書かれているわけで、この禁制からも、もともと上杉にうらみを持つ岡崎家が成政の入国に協力、既得権を確保したとみられる。成政が去り、前田家の支配になっても、大庄屋クラスの十村肝煎(とむらきもいり)に任命され、富山藩時代は歴代十村役を勤めた。なかでも十村最高職の御扶持人十村を勤めた者が多く、富山藩の農政に尽くしている。家紋は丸に鱗(うろこ)

 

うさかサンサイおどり

1                                          4

おどるまいか 見まいか おどるまいか 見まいか   小さい子供に 花がさ きせて

  島の徳べえの 嫁見まいか                          きせて ながめりゃ あいらしゃ

 

嫁見りゃなんじゃ 嫁見りゃなんじゃ               七夕さまよ 七夕さまよ

  目こそへがなれ きりょうよし                       書いて流され 天の川

 

きりょうがよいとて 根性がしりょうか              おどりみにきて おどらぬものは

  鵜坂太鼓(たいこ)のばいで つらばかり            あしにたんこべ できてくれ

 

島の徳べえの土用ぼし見まいか           小さい子供に 花がさきせて

   おいに七棹(しちさお) 座敷(ざしき)八棹(やさお)              さきい たたせて あとから見れば

    (えん)の出口に (ここ)(さお)                いちゃけ残らず 愛らしゃ

サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー      サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー

 

2                     5

むかしむかしのことなが だれど          盆がちこなる こんやが()ける

   しちべたたいて まいったと            盆のかたびら (しろ)できた

 

氏子にくうて たたいたがでないが         おらのあんまに ジョーセン買うてもろて

  無事にいい子が産まれよう              どこでなめよか ぺらぺらと

 

鵜坂の神様 女の女神               盆の十六日 おしょうらい しょうらい

  氏子かわいと 見てござる              しょうらい まかのうて 日が()れた

 

稲の穂にホラ また穂がさいて           東たんぼに 光るもんな なんじゃ

   でっかい米ぐら いくつでもたてて         虫か蛍か こがねの虫か

    でかなれようなれ 子どんたち          虫でないもんな 火の玉じゃ

サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー      サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー

 

3                     6

たべて みられま すしの苗杉(なえすぎ)        おらっちゃ ちっちゃいときゃ 起き上がりこぼし

   笹のはっぱに (つつ)まれた              寝たり起きたり ころんだり

 

こんな んまいもんあるかいと           わたしのせどに みょうがと ふきと

   みやげにだいたが はじめやと           みょうが めでたや ふきはんじょう

 

神通川にも 井田の川にも             るすごとせまいか るすごとせまいか

   アユがとれりゃ マスもおる            あづきごとにて だごせまいか

 

家持(やかもち)ハンも鵜がいをしたと             おらっちゃみてきた 安田の山で

   いまじゃ したても鵜も おらん          猫が米かち ねずみがおどる

     昔のすがたが なつかしい            てんと いたちが かいにくる

サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー      サーイ、サンサイ ヨンサノ ヨイヤナー