轡田村開拓の祖

轡田佐衛門尉と紫雲山浄福寺

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大村城跡
 戦国時代の末期(16世紀後半)越後の上杉謙信が越中に攻めいり、越中勢力が、これに対抗していた頃、浜街道の防備のかなめとして大村城(現、富山市海岸通り57)が築かれ、ここにたてこもったのが、轡田(くつわだ)豊後守(ぶんごのかみ)雅正(ただまさ)であった。轡田氏は大村城に1万石を領して在城し、日方江館にその家老が3000石を領して住み、ここを本拠として、東岩瀬、新庄、水橋などを勢力下においていました。岩瀬や水橋は、古くから街道沿いの渡し場が存在したことで知られ、そこにある城館はこの渡場を掌握することによって、神通川や常願寺川を含む北陸交通を支配、規制してきました。

 従って、轡田氏は大村城城主であると同時に新庄城の城主でもありました。しかし、轡田氏に関する確実な史料は極めて少ない、半面、伝承がいくつか残されています。一つに「飛びだんご」の伝説があります。この浜街道路に出没する魔物を「越中五大将」の一人と呼ばれた豊後守が、団子の力で退治したというのであります。また日方江の「そうけ塚」というのは、上杉謙信が大村城を攻める時に築いた高台の跡だと言われています。これは当時、上杉方が村の者に、「そうけ一杯、銭何文」と金を与えて、土砂を運ばせて築いたものだといい伝えています。

 謙信は、ここから大村城を見下ろして、轡田氏を破って能登に向かったと伝えられています。

天正6年(1578)上杉方の武将河田豊前が大村城に攻め入り、雅正(ただまさ)は討死しました。今、富山市海岸通り地内の瑞円寺境内に「精霊塚」があります。ここが雅正の墓所であるといわれています。

付近からは遺品とみられる刀などが出土したり、城の抜穴の跡らしきものも見つかっています。

(ちな)みに、轡田村の地名の起こりとなった轡田佐衛門尉は郡誌にあるように「威望四隣を圧し、他士の当地を侵略するものなき・・・」程の勢力だったことがうなづけるし、左衛門尉とは豊後守と同一人物なのか、またその先祖なのか明らかではありませんが轡田氏が轡田村の開拓の先祖であることは明らかだと思います。また下轡田の紫雲山浄福寺の開基祐専(ゆうせん)は轡田豊後守の長男であったといういいつたえや、同寺に残る陣鐘も轡田氏が、陣中において使用したものに間違いないのではないかと思われます。